1840年代から1850年代
1848年革命の活動家が、初期のルーマニア国旗を掲げる図アレクサンドル2世ギカの専横と保守主義支配に対して反対する、自由主義の台頭と急進主義がともに流行したことは、イオン・クムピネアヌ(Ion Campineanu)による抗議の声を伴わって初めて世の中に伝わった(瞬く間に弾圧された)[56]。そのためにますます政府打倒の陰謀が増え、陰謀を企む秘密結社がニコラエ・バルチェスクやミティカ・フィリペスク(Mitic Filipescu)といった若い士官らによって結成されていた[57]。
1843年に結成された秘密結社フラツィア(Frcia、ルーマニア語で友愛)は、ゲオルゲ・ビベスク政権を倒す革命、1848年には組織規定(Regulamentul Organic)を無効にすることを計画し始めた(ヨーロッパ諸国で起きた1848年革命に触発されていた)。彼らの全ワラキア・クーデターは、観衆が6月9日(新暦では6月21日)のイスラズ宣言(en:Islaz Proclamation)に喝采をおくったトゥルヌ・マグレレ近郊で最初成功しただけであった。宣言には、外国による保護制廃止、完全独立、農地解放、そして国民防衛隊の創設が盛り込まれていた[58]。6月11日から12日、運動はビベスク公を退位させることに成功し、臨時政府が設立された。革命の反ロシア目的に対し共感を得たけれども、オスマン帝国は革命運動を押さえつけるロシアによって圧力をかけられた。トルコ軍は9月13日、ブカレストへ入った[59]。ロシアとトルコの軍は、1851年まで占領を続けた。退位したビベスク公の次にワラキア公となったのは、ロシア皇帝とスルタンから指名されたバルブ・ディミトリエ・シュティルベイで、革命関係者の多くが国外へ亡命した。
クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854年-1856年)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられた。条約には、オスマン帝国による宗主権をヨーロッパ列強(イギリス、フランス第二帝政、サルデーニャ王国、オーストリア帝国、プロイセン王国、ロシア帝国)の保障付きで認めること、列強の会議、カイマカン(en:kaymakam、トルコの地方長官職)主導の内政管理などが盛り込まれていた。ドナウ公国合同のために持ち上がった運動(最初1848年に要求する声が上がった。亡命した革命家の帰還によって大義が固められた)は、フランス帝国とサルデーニャ、ロシア、プロイセンが援護した。しかし、それは否決されるかその他の保護国によって不審に思われていた[60]
先物取引
1857年のワラキアでのディヴァン激しい運動の後、正式なモルドヴィア=ワラキア合同公国が最終的に受諾された。協定によってそれぞれの公国は、現地出身の公と議会と選挙制議会を持つものの、2公国共通の司法裁判所を持つことになった。ボイェリの特権はこの時に廃止された。それにもかかわらず、1858年の公選挙は合法的な曖昧さから利益を得るものであった(最終合意の原文には2公国の公位を明文化していた。しかし同時に一人の人物に味方することや、一人の人物がブカレストのワラキア議会と、ヤシのモルダヴィア議会での選挙で勝利することを妨げなかった)。自由主義政党パルティダ・ナツィオナラ(Partida Nacional)の合同主義者として立候補した軍人アレクサンドル・ヨアン・クザが、1月5日にモルダヴィアでモルダヴィア公に選出された。合同主義者たちによって同じ投票がされると予想されていたワラキアは、最高会議において反合同主義者が多数派となって以前とは形勢が逆転した[61]。
このような状況で、ブカレストに集まった群衆の一団が抗議した後、議員らの忠誠心に変化を与えた[62]。2月5日(旧暦では1月24日)、クザがワラキア公に選出された。従って彼はモルドヴィア=ワラキア合同公国の公(en:Domnitor)として承認された(1861年以後はルーマニア公となる)。これで事実上の合同を果たしたのだが、彼一代の統治期間が国際的に承認されたのみで、彼の後継者たちに対して効力はなかった。クザは7年に及ぶ在位の間、寄進修道院所領の世俗化、農地改革、メートル法採用、刑法典と民法典整備(ナポレオン法典を模範とする)、教育制度整備を行った。これらの改革活動によってクザは保守・自由両派と対立を繰り返すようになった。クザが支持を失い1866年2月に退位させられた後、合同を維持することを第一に考えた臨時政府は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール公子(カロル1世)を新たな公に選んだ。同年7月1日に憲法が制定され(1866年7月1日憲法)、正式に国名がルーマニアとなった。カロルの即位以後、2公国の合同を変更できなくなった(普墺戦争と同時期であった。この時オーストリアは決定に反対の立場をとっていたが、干渉する立場になかった)。
サン・ステファノ条約、ベルリン会議を経て、ルーマニア王国が独立国家として正式に列強から承認されるのは、1881年のことである。
ヴラド3世(Vlad III , 1431年11月10日 - 1476年)、通称ドラキュラ公または串刺し公(Vlad Drculea / Vlad bepe_)は、15世紀ルーマニアのワラキア公。
投資信託
ツェペシュとは、「串刺し」の意味で、苗字ではなく串刺し公と言う意味を込めたニックネームである。苗字はない為、ヴラド3世とするのが正確である。存命時はむしろツェペシュよりもドラキュラというニックネームの方が多く用いられたのではないかと言われ、本人筆と思われるサインにも「ヴラド・ドラキュラ」(正確にはWladislaus Drakulya、ヴラディスラウス・ドラクリヤ。"ヴラド=竜の息子"の意)と書かれたものが存在する事から、ドラキュラというニックネームは本人も喜んで使用していたと推測される。
「ドラキュラ」のニックネームから分かる通り、吸血鬼・ドラキュラのモデルとして知られる。しかし現在は、ルーマニア独立のために戦った英雄として再評価されている。
目次 [非表示]
1 生涯
2 串刺し公の由来
3 ドラキュラ公の由来
4 吸血鬼伝説との関係
5 ドラキュラ城
6 関連項目
7 外部リンク
FX
[編集] 生涯
1431年(1430年説もある)11月10日、トランシルヴァニア地方のシギショアラでヴラド2世ドラクル[1] (悪魔公とも)の次男として生まれる。この年、父ドラクルは神聖ローマ帝国から竜騎士団の騎士に叙任される。通称のドラクルはこの竜騎士団の竜(ドラコ)に由来する。
1436年、父ドラクルがワラキア公となる。ハンガリーと共にオスマン帝国と戦うも港町ヴァルナの戦いで敗北。オスマン帝国に臣従を余儀なくされる。
1444年、弟のラドゥ(美男公)とともにオスマン帝国の人質となる。
1447年、父ドラクル及び長男のミルチャが暗殺される。トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュの指示か。フニャディ・ヤーノシュはダネスティ家のヴラディスラフ(ヴラドのはとこ)を支持し、これをワラキア公とする。ヴラドはワラキア支配をもくろむオスマン帝国の支援で、ヴラディスラフを排除しワラキア公の座に就く。しかし、2ヶ月でフニャディ・ヤーノシュに敗れ、モルダヴィアへ亡命。
1451年、モルダヴィア公が暗殺され、トランシルヴァニアに戻ってフニャディ・ヤーノシュに保護される。
1456年、ハンガリーを蔑ろにするヴラディスラフを排除したいフニャディ・ヤーノシュの支援のもと、2度目のワラキア統治。
1459年、ワラキア領内の大貴族を打倒して権力を掌握。公の直轄軍を編成。また、オスマン帝国への貢納を拒否する。オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは使者を生きたまま串刺し刑にする。無礼があったためと釈明。その後、軍を進めオスマン帝国軍とたびたび交戦し、その都度撃退する。
日経225
1462年、オスマン帝国はヴラドの弟ラドゥ(美男公)を支援し、ヴラドから離反した貴族たちを糾合させてヴラドの追い落としに成功。ヴラドはトランシルヴァニアに落ち延びたが、ハンガリー王マーチャーシュ(フニャディ・ヤーノシュの子)から捕らえられ、幽閉の身となる。このころ最初の妻が、ポエナリの城の塔から投身自殺。ちなみに、フランシス・フォード・コッポラの映画『ドラキュラ』(1992年)では、この事件が、ヴラドが反キリストの吸血鬼となったきっかけとしている。また、コナミのゲーム作品悪魔城ドラキュラシリーズでも、同様のエピソードでヴラド公は魔王ドラキュラ化したとしている。
1474年、幽閉から釈放される。この間、正教会からカトリックに改宗し、マーチャーシュ王の妹と結婚している。この改宗により、東方正教中心であったワラキア公国民の人心を失った。
1476年、3度目のワラキア統治。
同年(1477年説もある)、現在のブカレスト近郊でオスマン帝国と戦って戦死。一説には、ヴラドに敵対するワラキア貴族による暗殺ともいわれる。トルコ軍は、ヴラドの首を塩漬けにし、コンスタンティノープルに持ち帰って晒したという。ヴラドの遺体はスナゴヴの修道院に葬られたとされる。
外為